2011年4月

被災者の声なき声、どう聞いたら良いの?

2011年4月18日 (月)

南三陸町名足保育園に建築相談会担当員として4月16日
(土)伺う機会を得た。

県から町の担当官がご一緒され、本日の相談会は被災され
た方で、補修なり再建される意志のある方への支援制度等
の相談に来たとの趣旨が説明され、相談会が開催された。

この保育園は南三陸町歌津町の被災者避難所にもなって
おり、当時は300名ほどおられたが現時点では80名ほど
とか。あれから1カ月と5日も経っている現実を目の当たりに
し、何と言って良いかやるせない思いで一杯、どう表現したら
良いのか解らない。

担当官の説明があったに拘わらず、何かの説明に来たという
事で、長い時間自分の番まで待っておられた方々。

自分の番になって’何の相談ですかと聞かれても、家(ウジ)が
ない、金(カネ)もない、罹災証明書もさっぱり来(コ)ない、仮設
住宅に住め(ン)るのか、俺だちどうするべや、それしか言いよう
がネーべ’と口々に語られていた。

この小さな名もない避難所には情報というものがちっともない。
兎に角、情報が欲しい、と切実な叫びをしていました。

東北道終点登米東和を降り、南三陸町に入った。あの松尾会
館、志津川病院、どこもかしこもあの風景は何の面影もない無
残そのもの。
帰り歌津、志津川、北上、桃生を経て夕闇の石巻市に通った。

今回、仙台市荒浜から塩釜市一帯、福島県との県境山元町か
ら名取市閖上、そして岩手県宮古市から宮城県気仙沼市と奇し
くも被災地沿岸一帯を概略見て回る事が出来た。

友人、知人、閖上のお客さま、我が家の懐刀であった宮古の
小原さん、我が生まれ故郷釜石、気仙沼の親戚、事務所スタッ
フの家、皆みんな居なくなっちゃった、流されてしまった。
私自身今後どうすれば良いのか解らない中、もっともっとスゴ
イ人々がいる、今後どうすれば良いのか解らない人々が沢山
沢山いる。

今、今が問題だ。
国よ、行政よ、あなた達だけが頼りです。
どうしてくれる、どうにかして下さい、どうすれば良いの。
遣り切れない思いだけで一杯になる。

身の回りも大変です。住める状態でないお宅、内壁、外
壁、屋根、基礎、クロス、浴室、便所、ありとあらゆる所
やられている、見て下さい、何とかして下さい、の声声声。
焦るばかりで手につかない。

報道なんて、この実態何にも伝わっていない。
全国民から暖かい励ましやお言葉、義援物資様々な支援
を頂き、兎に角、有難いの思いで一杯である、が、問題解
決には程遠く、生身の生きて行かねばならない今今の心に
は、手応えというか実感が伴わない。
余りにも自分ではどうしようもない途轍もない出来事なので。

本当にどうなってしまうのでしょうネ。

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